思考メモ1

思考重視のために言葉の質は悪くなっている。

回転寿しのマグロを見てこれはマグロではない、深海魚だとおおっぴらに言うがただの知識自慢ならいいが食べるなという人間がいる。コンビニのおにぎりより安い寿司が一皿に二巻も載っていながらマグロを当たり前に期待してしまっている。
第3のビールを飲む人にこれは生ビールじゃない危険だ人が作ったものだ人工のものは飲むなという人はなぜかいない。
当たり前のように矛盾がまかり通る。

貧富の差が生んだ食の質の低下というこの問題、マイケルポーランがでていたNetflixオリジナルドキュメンタリーで多く取り上げられていた。自分自信のいままでたべてきた食の積み重ねは多分、外食の方が美味しいという風に能にすりこませてあるきがする。

質疑応答をする上で答えがすぐに出てこないのはダメだというのは間違いだ。
考えながら知識を作りながら答えねばならないのにすぐに答えを出すことは不可能だ。
すぐに答えを出すことを求められるテストが多くなった結果社会全体に偏見が蔓延しているようにみえる。

会話はテニスに例えると上手く行きやすい。気の合った仲間と心地よいラリーをする。心地よいラリーはすぐ飽きるからたまに鋭く打ってみたりもしなきゃいけない。
一方的に強いラリーをひけらかす奴もいる。

たまに場外ホームランやネットに思い切り玉をぶつけてラリーを続けろといい、しかも玉を取りに行かなければわめき散らしながら自分を狙って球を打ってくる奴もいる。

ハイパーユニカムであるフェデラーやニシコリも球を取らない選択をしたり細かなミスをする。確かテニスの得点の2/3はミスのはずだ。

詰まるところ何を言いたいのかはわからないが、フェデラーやニシコリが取れない球は取れないだろうし、取らない球は取らない。とりあえずのところそうなのだがうわべだけの話で何を言わんとしているかは自分というアイデンティティの確立のために伝わってはならぬのだが伝えるよう自分は努力が必要だし相応に敬意を持って理解しようとしてくれる相手も必要だ。
自分が打った球の回転や速度、球の形状は確実に彼に届く頃には変化している。

物事を事象を軸に考えるという思考方法。
信じる、信じないについて考える際にでた。
信じるという行為は愚かだ。それは何故か、信じ得ることが出来るという領域を超える方法が見当たらないからだ。となると、信じるという行為は不可能だ。しかし人は信じるという行為をしているからどうすれば信じられるかという風に思考する。
思考実験として、明け方の交差点、交通事故がおき、若い男性が車にはねられた、車ははねた男を放置し逃走したとする。
事象を観察すると観察可能な事象に対してはほぼ確実に信じ得る。
しかし私の観察眼は交通事故が発生したモーメントに何を捉えたか?それは謎に思う。
私はその事故を知っていると私を信じられるか?となると信じられるだろう。
克明にその状況を説明できるか?となるとできなさそうだ。観察眼がどこを向いているかというのはそのモーメントで一点から一点へだから全体を捉えきれない。
被害者はどういう経過を持って事故にあい、今どうしているか?
加害者はどういう経過を持って事故を起こし、今どうしているか?

いま信じると知るということでせめぎあっている。
ここまで思考実験してみると信じるという行為に知るという行為が絡み合ってくる。
信じるというのは知るという行為の一定の水準という可能性はどうか?

この思考実験ではあらたな仮説をえたものとする。

事象を軸に考えるというのは、五感全てをつかって事象を直接観察しきった際に99.9%信じ得るという風に考えるやり方で、事象の変化はつまり自己の信じるものも変化する。
日本語がおかしい。後者の信じるとはなんだ?

事象を軸に考えるととても流動的だ。
流動的という言葉から流されやすい人というのが連想したが、流されやすい人というのは?
事象に依存するからで、自己が信じているものとは齟齬が常に生まれ続けると言える。

信じることが愚かだと言いたい時、99.9%信じ得たものでもいま現在確実に変化しているのに変化していないかのように振る舞うからで、もはや彼の妄想に過ぎない常態になっている。
信じているものはもうすでに理想や妄想であって、信じるというのはその正当化、固定化だ。信じるという行為が信憑性を落としかねないという説明はどうか?
哲学的に考える際キャッチコピーのような扇動的な言葉を使って表現する人間が多いが、便利だがあまり良くない。考えさせるというより一方的に信じ込ませるようだ。
信じ込ませるというのは、相手に何かしら信じるという行為をさせているということで、受け取る側が愚かである必要がある。人は信じるという行為に関して非常に愚直な生物なのがわかる。

この信じる信じないというのはニュースの上手い読み方を考える時に良く問題に上がる。
現代人はニュースを選別することが出来るほどの情報を得ることのできる第一世代であるから、情報の選別の技術が下手くそなのは仕方ない。がしかし、勉強して上手く情報を扱えるようになってほしいと思うわけだ。

ここからの文節は批判理由が嫌悪感であるため意味がない。受け取った感情が全てだというのは馬鹿だ。これは侮蔑の意味である。扇情的な文章を読み、扇動されている動物だ。ニュースから感情は生まれない。情報は無機質だからだ。かなり強めに人が手を加えたものでないと感情は生まれない。「SNSの台頭でマスゴミは嘘を言えない」と声高に言う人がいたのには驚いた。SNSはマスコミである。週刊誌などと変わらない。でも実際、SNSの台頭が情報の幅を広げている功績は評価できる。この前の丸山議員の件は珍しくSNSのお陰で丸山議員の評価を無駄に落とすことがなくなった。でも代わりにSNSで嘘が蔓延することの方が多くなった。ツイッターであればフォロワー以外のメッセージが流れないのに、それが世界の情報全てだと錯覚しがちだからだ。こっちの方が言葉を借りればマスゴミである。以上

ニュースというのは起きた物事を、早く、人が知りたいものから、人の意見をなるべく排除して書かれるフォーマットのようなものである。
ニュースの基本フォーマットは新聞のような文書のようなものだ。
見出し、本文1、本文2…と続くわけだが、見出しはおよそ13文字以下。これは読者がほしい情報を選別する際に便利なようにするためのものだ。見出しの作り方もある程度決まっている。

ニュースの件は長くなるし思考が大分固定的になっているから置いておく。